澤熊講師と行く・歴史ハイク                                   2008年4月21〜23日

天草五橋とキリシタン文化を訪ねて

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泉大津港17:30(船中泊)〜新門司港5:30船中朝食=(バス)=三角西港
天草四郎メモリアルホール=前島橋ウォーク昼食・「天草パールセンター」
=サンタマリア館=本渡歴史民族資料館=道の駅「不知火」=松橋IC
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 九州の西の果て
、東シナ海を望む天草諸島
 天草と聞けば、誰もの脳裏に浮かぶの名前が天草四郎です。

 江戸初期に、九州の島原・天草で起きた「島原・天草一揆
 その総大将として名もない一少年が彗星のごとく登場し、多くの謎を秘めたままその短い生涯を
 終えました。その名は、天草四郎
 
 彼は本名を益田四郎時貞といい、元和7年(1621)江部村(現在の宇土市旭町江部)に生まれました。
 父・益田甚兵衛はキリシタン大名・小西行長の元家臣で、小西家没落後、江部村で農業を営んでいて、
 家族ともに敬謙なキリシタン信徒であったと伝えられています。

 当時の天草・島原地方は、飢きんや重税とキリシタン弾圧に苦しみ、民衆の不満は頂点に達していました。
 一揆の首謀者と言われる天草・島原の代表者達は、湯島(談合島)にて会談を行い、元服したばかりの
 益田四郎少年を一揆軍の総大将とし決起することを決定したのです。

 この時、益田四郎は天草四郎時貞と命名されたのでした。

 だから益田四郎時貞が天草四郎と命名されてからの活動の拠点は島原なのです。
 正直、天草には四郎の遺跡はあまり残っていません。天草四郎の足跡を語るのは、
 再来月の6月3日からの『キリシタン歴史ハイクパートU・島原』となります。
 〔天草四郎は、幕府軍の島原・原城総攻撃により火の中で自害したと伝えられています。〕

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天草への第一歩は三角西港です。
三角西港は、明治20年に明治政府の国内統一殖産振興の政策に基づいて、オランダ人水理工師の
ローウェンホルスト・ムルドルの設計で建設されました。当時の最新の技術が盛り込まれ、近代国家
の威信を懸けた明治三大築港の一つです。


 小泉八雲と三角西港
 「その宿屋は私にとっては極楽、そこの女中達は天人のように思われた。」・「浴衣を着て、涼しい畳の上に楽々と座ってよい声の
 女中達にかしずかれて、綺麗な物に取り囲まれているのは、十九世紀のすべての悲しみの償いのようであった。」
 これは、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『夏の日の夢』と題した作品の一節です。熊本の五高の教師として赴任していたハーン
 は、明治26(1893)年7月20日に長崎に赴き、その帰りの22日に海路から熊本へと戻りますが、深夜の到着であったことから港の
 中の旅館に宿を取り一泊しました。女中達から歓待された後、女将からその宿の屋号が「浦島屋」であることを知らされたハーンは
 大層喜び、自らを昔話の中の浦島太郎の存在に重ねながら『夏の日の夢』という作品を創作したのです。


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 天草四郎メモリアルホール
 「天草・島原の乱」の歴史的背景及び南蛮文化の影響を受けた当時の模様を貴重な資料と立体映像
 などの特殊記述が用いられ、わかりやすく紹介されています。
 このホームのうたい文句は・天草四郎の真の姿と民衆の熱き思いを今に伝える体験的テーマ館。


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 天草四郎には数々の伝説が・・・
 ◎...湯島(天草と島原の間に位置する島)まで海の上を歩いて渡った。
 ◎...四郎が手を高く掲げるとその手に水がたまり、その水が怪我人を癒した。
 ◎...天から鳩を呼び、胸に抱くと鳩が卵を産、卵の中からは経文が現れた。
 など。乱後の唯一の生き残りである山田右衛門作の口述書の中で
 「四郎は、才知にかけて並ぶものなし、儒学や諸術を身に付けたデウスの生まれ変わ
 りである」と語られています。
 また四郎はこの頃、大矢野四郎と名乗っていたとも言われています。
 キリシタン禁制下のことでもあり、本名を名乗るのは憚られたという理由のようです。

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 天草五橋
 天草五橋とは、熊本県宇土半島先端の三角から、天草諸島の大矢野島、永浦島、池島、前島を経て
 天草上島までを結ぶ5つの橋の総称で、1966年(昭和41年)9月24日に開通しました。

 1号橋から5号橋の間の国道266号及び路線に重複する国道324号は、天草で真珠の養殖が盛んなこと
 から天草パールラインと名付けられ、日本の道100選にも選ばれています。
 また、大矢野島から上島までの間3km足らずは小さな島づたいで2号橋・3号橋・4号橋・4号橋が
 ほぼ連続しています。その間の両側の海に大小さまざまな島が浮かぶ風景は、天草松島と呼ばれ
 日本三大松島の一つに数えられています。
 ◎...天草松島(熊本県・天草五橋の五号橋は別名・松島橋と呼ばれ、ココからの眺めは最高)
 ◎...九十九島(長崎県・佐世保港の外側から北へ25kmにわたり島々が点在する海域のこと)
 ◎...仙台・松島(宮城県の松島湾内外にある大小260余りの諸島のこと。)


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4号橋を徒歩で渡ると絶景の昼食処「天草パールセンター」です。


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 サンタマリア館
 天草五橋を過ぎ、国道324号を島原湾沿いに進むと、天草市有明町大浦の入江近くに白い洋館の
 サンタマリア館が建っています。先祖が隠れキリシタンであったと言う浜崎栄三氏が、私費で約30年
 の歳月をかけて集めた資料を展示しています。

 別館には江戸時代から明治時代まで天草の人々が実用した徳利250本天草土人形約60点、
 南米ペルー移民資料他


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 天草切支丹館
 16世紀後半に伝来した異国情緒あふれる南蛮文化のロザリオやクルスから、天草・島原の乱で
 使用された武器、キリシタン弾圧期の踏絵、そして隠れキリシタンの生活が偲ばれるマリア観音像
 まで約400点が展示されています。
 中でも、国の重要文化財に指定されている天草四郎陣中旗は必見で、これは1637年に起きた
 天草・島原の乱で天草四郎が使用したといわれるものです。世界三大軍旗の一つで、旗には戦い
 の激しさを物語る血痕や矢弾の跡が残っています。

 本渡歴史民族資料館〔切支丹館と同じ場所〕
 天草五人衆が活躍した中世時代の出土遺物を展示。
 ・江戸時代の古文書や商業資料などの歴史資料を展示。
 ・明治・大正・昭和時代の実物資料の展示。
 ・天草の復元民家を中心に民俗史料を一堂に展示。

 天草五人衆とは
 天草諸島の国人衆、天草氏志岐氏大矢野氏栖本氏上津浦氏のこと指します。
 天草五人衆は、豊臣秀吉の九州征伐には、降伏し所領を安堵された。しかし、小西行長の宇土城の
 城普請に志岐氏(志岐麟泉)が反発した事から、天草種元などの五人衆全てが、反乱を起こしました。
 しかし、小西行長・加藤清正の軍に攻められ、滅亡、服属しなければ成らない運命になったのでした。
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道の駅「不知火」
帰り…道中の休息処です。温泉も有りましたが、船の時間が迫ってましたので・・・
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天草・切支丹紀行は無事終わりました。
次回は、6月3日に天草四郎が最後の地・島原の原城にまいります・・・では又



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