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平氏が安徳天皇を奉じて西国へ敗走後,安徳天皇が退位しないまま、後鳥羽天皇が即位した為
寿永2年(1183年)から平氏滅亡の文治元年(1185年)まで間、在位期間が2年間重複している。
三種の神器を安徳天皇とともに平氏が持ち去ったために神器が無い場合の緊急避難措置として
後白河法皇の院宣により即位しました。

院政
後白河法皇の死後、関白九条兼実の働きで源頼朝に征夷大将軍の称号が宣下されます。鎌倉に
幕府が開かれた年でもありますが、同7年(1196年)源通親の娘に皇子が産まれた事で政変が起
こり、九条兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ宮中から追わます。

承久の乱
建久9年(1198年)1月11日、土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳、仲恭と3代23年間に渡り
上皇として院政を敷きましたが、院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採って、台頭する
鎌倉幕府に対しても強硬的な路線を採りました。

承久3年(1221年)後鳥羽上皇は、時の執権北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して
承久の乱を起こしますが、幕府の大軍に完敗。隠岐島に配流されます。

隠岐に流される直前に出家して法皇となった後鳥羽上皇は、四条天皇代の延応元年、配所にて崩御。
同年5月、顕徳院と諡されます。後高倉皇統の断絶によって後嵯峨天皇(土御門院皇子)の即位と
なった仁治3年(1242年)7月、院号が後鳥羽院に改められました。
歴代の天皇の中で諡が改められたのは後鳥羽院のみであり、かなり例外的と言えます。

歌人として
鎌倉の実権は北条氏に移り、幕府との関係は次第に軋轢を増してゆく頃から和歌に執心し
藤原定家・同有家・源通具・藤原家隆・同雅経・寂蓮を選者とし、『新古今和歌集』撰進を命じ、
同歌集の編纂には自ら深く関与し、四年後の元久二年(1205)に一応の完成をみた後も、「切継」
と呼ばれる改訂作業を続けました。

熊野詣
建久3年(1192)34回もの熊野御幸を行った後白河上皇が没しましたが、熊野御幸は後鳥羽上皇
に引き継がれます。
後鳥羽上皇は、譲位したその年にさっそく熊野御幸を行うほど、熊野信仰に熱心でした。
その熱心さは生涯に34回もの熊野御幸を行った後白河上皇をも凌ぐかもしれません。
後白河上皇は35年の在院期間のうちに34回の熊野御幸を行ったのに対し、後鳥羽上皇は24年の在院
期間のうちに28回。往復におよそ1ヶ月費やす熊野御幸を後鳥羽上皇はおよそ10ヶ月に1回という
驚異的なペースで行いました。
建仁元年・4回目の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『後鳥羽院熊野御幸記』
に記しています。

 
、見るままに 山風あらくしぐるめり 都も今は 夜寒なるらむ
 
、岩にむす 苔ふみならすみ熊野の 山のかひある 行くすゑもがな
 
、熊野河くだす早瀬のみなれざほ さすがみなれぬ波のかよひ路

『新古今和歌集』編纂の院宣が下されたのは、この建仁元年の熊野御幸から帰京して数日後の事でした。


崩御までの十九年間を配所〔隠岐〕に過ごし、
この間、隠岐本新古今集を選定し、「詠五百首和歌」「遠島御百首」「時代不同歌合」などを残します。
また嘉禄二年(1226)には自歌合を編み、家隆に判を請う。嘉禎二年(1236)、遠島御歌合を催し、在京の
歌人の歌を召して自ら判詞を書く。

延応元年(1239)2月22日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。60歳。刈田山中で火葬に付されました。





御所焼・菊紋
刀を打つことを好み、刀工の鍛冶に好みの兵庫鎖拵えを打たせた。また自らも刃紋を入れそれに
十六弁の菊紋を入れた。「御所焼」「菊御作」と呼ばれる。それが天皇家の菊紋のはじまりです。

後鳥羽上皇・考

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