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「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」・考
(司馬遼太郎『坂の上の雲』より)


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加藤参謀長は、なお長官公室にいる。電報の翻訳文をみせたあと、蒼白のひたいを 光らせて、「艦隊に

出港を命じます」と、東郷の了解をもとめた。「うん」 東郷が、うなずいた。東郷が民族の興亡を決すべき

運命の戦いヘスタートするにあたって、意思表示したことといえばただそれだけだった。かれはよく整った

品のいい顔つきをしていたが、その表情からさきほどの喜色が消え、ふだんの東郷の顔つきにもどってい

た。ちょうど陽のよくあたる場所で田の面をながめている老農夫の顔のように平凡でしずかで、すこしの

劇的要素もなかった。日本人は情景が劇的であればあるほどその主観的要素を内部にしまいこんでしま

うところがあり、東郷のこの光景は能に似ていた。各艦はただ命令を待つだけになっていた。あらかじめ

各艦に対しては、「文書による事前令達」というものが出ていた。出港順序などもわかっており、石炭はす

でに二日前に補充が完了していた。さらに機関もウォーミング・アップしており、どの艦の煙突からも煙が

出ていた。命令あり次第、全艦隊は無言無声のまま、するすると出てゆけるようになっていたのである。

この点も能に似ていた。


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かれは幕僚室に帰ると、机の上に両ひじをつき、上体を乗りだし、癖のあるするどい目をぎょろぎょろさせ

てまわりをみた。作戦参謀である真之のなすべきことの九割までは この事前においてすでに終了した。

あとは戦いにのぞんで.その結果を神の前でテストをうけるのみであったが、しかしいまただちにやらねば

ならぬことが、すくなくともひとつはあった。大本営に電報をうつことである。

連合艦隊司令長官である東郷が、決戦場にむかうにあたり、故国にむかってその決心をのべるための電

報であり.その起草をしなければならない。真之はのちのちまで日本海軍の神秘的な名参謀といわれた。

そのため、この有名な電文の起草者がかれであるということになった。かれは秋山文学といわれたくらい

に名文家であったことも.その誤解を生んだ。この電文は、真之が起草したものではなかった。げんに、真

之の目の前で、飯田久恒少佐や清河純一大尉らが、しきりに鉛筆をうごかしている。やがて飯田少佐が

真之のところへやってきて、草稿をさし出した。

敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」とあった。

「よろしい」真之は、うなずいた。飯田はすぐ動いた。加藤参謀長のもとにもってゆくべく駈け出そうとした。

そのとき真之は、「待て」ととめた。すでに鉛筆をにぎっていた。その草稿をとりもどすと.右の文章につづい

て、「
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と入れた。

後年、飯田久恒は中将になったが、真之の回顧談が出るたびに、「あの一句を挟んだ一点だけでも.われ

われは秋山さんの頭脳に遠く及ばない」と語った。たしかにこれによって文章が完壁になるというだけでな

く.単なる作戦用の文章が文学になってしまった観があった。さらにそれ以上の意味もふくまれているのだ

が、そのことはあとで述べる。

じつをいうと、この、「
天気晴朗ナレドモ波高シ」という文章は、朝から真之の机の上に載っかっていた。

東京の気象官が、大本営を経て毎朝とどけてくる天気予報の文章だったのである。



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日本の気象学と気象行政は、明治八年、東京赤坂で気象観測されたときからはじまる。同十五年に東京

気象学会が設立され.同十七年に全国を七つにわけて地域の天気と予報が発せられた。しかし日本の気

象学を実際におこすにいたった人物は、岡田武松(一八七四〜一九五六)である。

岡田は明治三十二年に東京帝大理科大学物理学科を卒業し、中央気象台につとめた。年表風にいえば

岡田の恩師の長岡半太郎が、この前年に原子核の存在を予言している。岡田が中央気象台に入ってほ

どなく日露戦争がはじまったため、かれは予報課長兼観測課長として.大本営の気象予報を担当すること

になった。戦争の運命を決定するのは、ときに気象であるということは、古くからいわれている。このため

日本は開戦前後から戦場の周辺に測候所を設置しはじめた。韓国内では、釜山.仁川など数力所におか

れ.華北では天津におかれた。日本は気象学やその行政の面でも背伸びしていた。岡田は.「日本はロシ

アを相手に宣戦布告したが、世界中は日本を遅れた国だとおもっている。だから英文の報告を世界の気

象台や気象学会に送るべきだ」として、戦時予報のために毎日へとへとになっていながら、「中央気象台

欧文報告」 という海外むけの雑誌を発行した。岡田自身が編集し、論文も書いた。筋の通った 気象研究

者が何人もいないため、一つの号で岡田が四つも五つも論文を書いた。その可憐さは、さきの 宮古島の

五人の漁夫に似ており、無私な作業といってよかった。

いよいよバルチック艦隊との衝突が近いというころになると、岡田は毎日の天気予報のために文字どおり

骨身をすりへらした。とくに五月二十六日の岡田は、(ひょっとすると、海戦はあすか明後日に)という予感

があった。このため二十六日午前六時の天気図の判断にはじつに苦心した。この天気図の材料は.前線

の測候所から送られてきたものであった。この二十六日午前六時という時限において、中心示度九九七

ミリバールの低気圧が九州海上に存在している。 いまひとつ九八九ミリバールの優勢な低気圧が旅順・

大連のある遼東半島付近にあり.このため九州方面から朝鮮半島.遼東半島あたりに雨が降りつつある。

さて、あす二十七日の天気であった。それも海戦が予想される海域上での天気である。それときょうの天

気図をにらみつつ予想をたてるのは、学理以外に経験が必要であった。岡田は六年の経験があった。

岡田は考えぬいたあげく、一個の断をくだした。そのあとに、文章化する作業がある。岡田は筆をとって、

天気晴朗なるも波高かるべし」と、書いた。一気に書いたという。これが大本営の無線室から鎮海湾

の三笠に送られた。その天気予報が、真之の机の上に載っていたのである。かれはむろん岡田という東

京にいる技師を知らなかった。このむだのない予報文をとりあげ、さらに簡素にし、

本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と書き加えたのである。


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いま一面は戦略的にそれをしなければ日本海海戦の意味はうしなわれるのである。こちらがたとえ半分

流んでも敵を一隻のこらず沈めなければ戦略的に意味をなさないという困難な絶対面を東郷とその艦隊

は背負わされていた。

バルチック艦隊は、戦艦.巡洋艦のうち..たとえ何隻でもいいからウラジオストックに逃げこみ.日本の海上

権を撹乱する可能性を残せば.それで十分ロジェストウェンスキーの勝利である


という専門家の論評さえ外国の新聞に載ったほどであった。

ロジェストウェンスキーはウラジオストックに逃げこむのが戦略目的であった。自己の戦略目的を達成する

ことは、たとえより薄い勝利にすぎなくあっても.成功であることにはまちがいなかった。その「成功」によっ

てロシアは今後日本の海上交通をおびやかし、満州の日本陸軍をひぼしにするという重大な戦略的優位

に立ちうるのである。これを逆にいえば東郷の場合、ロジェストウェンスキーがもっている軍艦という軍艦

をぜんぶたたき沈めてしまわなければ、勝利にならなかった。戦略上、東郷は「之ヲ撃滅」すべく要求され

ていたのである。次いで真之がつけくわえたところの、「天気晴朗ナレドモ波高シ」について、のち海相山

本権兵衛が、「秋山の美文はよろしからず、公報の文章の眼目は、実情をありのままに叙述するにある。

美文は動もすれば事実を粉飾して真相を逸し、後世をまどわすことがある」と、評した。

原則としては山本のいうとおりであった。しかしながらこの場合、真之のほうに分があった。真之は美文を

つけ加えるつもりはなかった。かつてウラジオ艦隊の巡洋艦三隻が日本近海に跳梁して陸軍輸送船を何

隻も沈めていたとき、それを追っかけるべく義務づけられていた上村艦隊が、かんじんなときになると濃霧

に遭い、そのためしばしば敵をとりにがした。

「天気晴朗」というのはその心配がない、ということであり、視界が遠くまでとどくためとりにがしはすくない、

ということを濃厚に暗示している。さらに砲術能力については日本のほうがはるかにすぐれていることを大

本営も知っていた。視界が明朗であれば命中率が高くなり、撃滅の可能性が大いに騰るということを示唆

している。「波高シ」という物理的状況は.ロシアの軍艦において大いに不利であった。敵味方の艦が波で

動揺するとき、波は射撃訓練の充分な日本側のほうに利し.ロシア側に不利をもたらす。「きわめてわが方

に有利である」ということを.真之はこの一句で象徴したのである。このことは電文をうけとった東京の軍令

部は理解した。軍政家の山本はおそらく世界海軍史上最大の海軍のつくり手であったが、戦闘や作戦の

経験がほとんどなかったため、真之の文章を単に美文と思ったのかもしれない。



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鈴木はさらに.戦闘の前に全艦隊を消毒してしまいたいという.理想をもっていた。これをあらかじめ各艦の

軍医長に通達しておいた。戦闘に出てゆく軍艦の艦内をすっかり消毒してしまうなど、世界の海戦史で例

のないことで環境衛生の歴史からみても珍例とするに足るものであった。つまり敵弾の炸裂とともに艦内

の構造物のこまかい破片が兵員の体に入る。もし治療が遅れた場合.化膿してそのために落命する場合

が多い。これをすこしでも防ごうというのである。戦艦敷島の艦長寺垣猪三が 語りのこしている実例でい

うと、まず 艦内を石鹸でもって洗わせた。そのあと噴霧器で消毒薬を噴きつけてまわったのである。この

おかげで.航走中の軍艦は 清潔な「消毒済」の容器になった。消毒はさらに入念をきわめた。全員を入浴

させた。入浴といっても 艦内の既設の湯槽だけでは足りなかった。臨時のバスとして つかわれたのは、

釣床がおさめられている鉄箱であった。兵の寝る釣床は、軍艦が戦いにのぞむとき、これを艦橋や大砲

の横その他必要な部分にびっしりとならべて防御物として使われるのだが、そのため空鉄箱が不用のま

まに置かれている。その鉄箱── といっても箱に穴があいているため正しくは箱の大きさにあわせた帆

布の袋をなかに装着して── それヘポンプでもって海水を注ぎ入れ、その中へ蒸気を吹きこむ。それだ

けで簡単に湯がわくのである。

ついでながら日本海軍の特徴として、戦闘服は下着にいたるまで新品が用意されていることで、戦闘に

は新装で従事する(ロシア側はもっとも汚れた服を戦闘の場合につける).鈴木の指示によってあらかじめ

全艦隊の新品の戦闘服は消毒されたまま格納されていた。入浴後、この「消毒済」の新品被服が出され

全員が着かえた。これなら.外傷をうけた場合の化膿の可能性をずいぶんおさえることができるに相違な

かった。

すべてがおわったあと、各艦の副長は砲側に砂を撒かせた。これはおそるべき作業であった。砲側が血

みどろになった場合、兵員が足をすべらさぬようにするための配慮だった。戦争が、人道と悪魔の作業を

同時におこなうものだという意味では、これが最後の戦争といえるかもしれなかった。


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「世界第一の海将」と著者がいう李舜臣は、豊臣秀吉の軍隊が朝鮮へ侵略したとき、海戦においてこれを

あざやかに破った朝鮮の名将である。李舜臣は当時の朝鮮の文武の官吏のなかではほとんど唯一という

べき清廉な人物で、その統御の才と言い、戦術能力と言い、あるいはその忠誠心と勇気においても、実在

したことそのものが奇蹟とおもわれるほどの理想的軍人であった。英国のネルソン以前において海の名将

というのは世界史上この李舜臣をのぞいてなく、この人物の存在は、朝鮮においては その後ながく忘れ

られたが、かえって日本人の側に 彼への尊敬心が継承され、明治期に海軍が創設されると、その業績と

戦術が研究された。鎮海湾から釜山神にかけての水域はかつて李舜臣がその水軍をひきいて日本の水

軍を悩ましぬいた古戦場であり、偶然ながら東郷艦隊はそのあたりを借りている。この時代の日本人は、

ロシア帝国をもって東アジア併呑の野望をもつ勢力と見、東進してくるバルチック艦隊をその最大の象徴と

みていた。それを一隻のこらず沈めることは東アジアの防衛のためだと信じ、東アジアのためである以上、

かつてアジアが出した唯一の海の名将の霊に祈ったのは、当然の感情であるかもしれなかった。



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時間と空間が次第に圧縮されてゆく。刻々ちぢまってゆくこの時空は、この日のこの瞬間だけに成立して

いるものではなく、歴史そのものが過熱し、石を熔かし鉄をさえ燃えあがらせてしまうほどの圧縮熱を高め

ていたといってよかった。

日本史をどのように解釈したり 論じたりすることもできるが、ただ日本海を守ろうとするこの海戦において

日本側がやぶれた場合の結果の想像ばかりは一種類しかないということだけはたしかであった。日本の

その後もこんにちもこのようには存在しなかったであろうということである。そのまぎれもない蓋然性は.ま

ず満州において善戦しつつも、しかし結果においては戦力を衰耗させつつある日本陸軍が.一挙に孤軍の

運命におちいり、半年を経ずして全滅するであろうということである。当然、日本国は降伏する。この当時

日本政府は日本の歴史のなかでもっとも外交能力に富んだ政府であったために、おそらく列強の均衡力

学を利用してかならずしも全土がロシア領にならないにしても、最小限に考えて対馬島と艦隊基地の佐世

保はロシアの租借地になり、そして北海道全土と千島列島はロシア領になるであろうということは、この当

時の国際政治の慣例からみてもきわめて高い確率をもっていた。

むろん、東アジアの歴史も、その後とはちがったものになったにちがいない。満州は、すでに開戦前にロシ

アが事実上層すわってしまった現実がそのまま国際的に承認され、また李朝鮮もほとんどロシアの属邦に

なり、すくなくとも朝鮮の宗主国が中国からロシアに変わったに相違なく、さらにいえば早くからロシアが目

をつけていた馬山港のほかに、元山港や釜山港も租借地になり、また仁川付近にロシア総督府が出現し

たであろうという想像を制御できるような材料はほとんどないのである。

日本海海戦は、幕末から明治初年にかけての革命政治家である木戸孝允が、生前口ぐせのように言い

つづけたところの、癸丑甲寅以来という歴史のエポックの一大完成現象というべきものであった。癸丑は

ペリーがきた嘉永六年のことであり、甲寅とはその翌年の安政元年のことである。この時期以来、日本は

国際環境の苛烈ななかに入り、存亡の危機をさけんで志士たちがむらがって輩出し、一方、幕府も諸藩も

江戸期科学の伝統に西洋科学を熔接し、ついに明治維新の成立とともにその急速な転換という点で世界

史上の奇蹟といわれる近代国家を成立させた。

同時に海軍を、システムとして導入し、国産の艦船をつくる一方、海上よりくる列強の侵入をふせぐだけの

戦略を検討しぬいて確立し、山本権兵衛を代表とする、勝つための艦隊の整備をおこなった。要するにあ

らゆる意味で、この瞬間からおこなわれようとしている海戦は癸丑甲寅以来のエネルギーの頂点であった

といってよく、さらにひるがえっていえば、

二つの国が、互いに世界の最高水準の海軍の全力をあげて一定水域で決戦をするという例は、

近代世界史上、唯一の事例で、以後もその例を見ない。




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