澤熊講師と行く歴史ハイク                                    2008年3月26日

四国・松山

「坂の上の雲」を歩く


大阪南港(20:30発)〜ダイヤモンドフェリー船中泊〜松山港(翌日7:45着)船中レストランにて朝食
三津浜渡し
(舟)湊三嶋大明神=愚陀仏庵
秋山兄弟誕生地東雲神社松山城
=・昼食(開花亭)=砥部焼き伝統産業会館と陶板の道散策=湯築城跡道後温泉


今回は、司馬遼太郎・著 『坂の上の雲』を訪ねる旅です。

小説「坂の上の雲」を超簡単に・・・
日本騎兵を育成し、中国大陸でロシアのコサック騎兵と死闘をくりひろげた秋山好古
東郷平八郎の参謀として作戦を立案し、日本海海戦でバルチック艦隊を破った秋山真之
病床で筆をとり続け、近代俳諧の基礎を築いた正岡子規
この三人を中心に、維新を経て近代国家の仲間入りをしたばかりの「明治日本」と、
その明治という時代を生きた「楽天家達」の生涯を描いた司馬遼太郎の歴史小説で、
1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)までの 約4年間、産経新聞夕刊に連載されました。

実を云うと、まだ読んでないのです。読んでから現地に行けば…と、思っていたのですが…
これから勉強です。



とりあえず小説の冒頭は、こんな文ではじまります。
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  まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。
 その列島の中の一つの島が四国であり、四国は讃岐・阿波・土佐・伊予にわかれている。 
 伊予の首邑は松山、城は松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。その市街の
 中央に釜を伏せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間がくれに高さ
 十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。
 古来、この城は四国最大の城とされたが、あたりの風景が優美なために、石垣も櫓も、
 そのように厳つくはみえない。
 この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、
 ともかくもわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。
             司馬遼太郎・著 『坂の上の雲』(文芸春秋刊)  第一巻〔春や昔〕より

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戦国の時代、その能力と技術の高さから傭兵として乞われ、そして懼れられた水軍。 しかし、
能力主義を否定することで封建制を保つ徳川幕府によって水軍の価値は否定され、いつしか
時代とともにその姿を消す。
それから二百数年後、突如黒船が来航し、時代が変革する。 新しい時代の明治という国家は
再び能力主義を要求した。 ここに伊予松山出身の無名の三人が登場する。
伊予水軍の末裔であった彼らは、其々の能力で奇蹟を描いてみせるのです。

秋山好古
秋山兄弟の兄の好古はのちに軍人になり、日露戦争の全局面で、史上最強と言われたロシア
のコサック騎兵に対し、世界で最も弱体と言われていた日本の騎兵集団をひきい壮絶な戦いを
展開し、これを打ち破るという奇跡的な快挙をなしとげています。結果的に日露戦争の帰趨を決
したと言われています。

秋山真之
「日本騎兵の父」と呼ばれた秋山好古の実弟であり、「秋山兄弟」としても有名。さらに正岡子規
とも親交があり、その文才も高く評価されました。
日露海戦旅順閉塞戦での「舷々相摩ス……」、日本海海戦での「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」、
そして、「古人曰ク勝テ兜ノ緒ヲ閉メヨト」で結ばれる「連合艦隊解散の辞」も、秋山真之の起草と
いわれています。

正岡子規
1867年(慶応3年)、伊予松山藩士正岡隼太の家に生まれる。
松山中学在学中に、自由民権運動の影響を受けて政治家を志すが、好奇心と探究心が旺盛な
子規にとって、松山という田舎では満足せず、1883年(明治16年)に松山中学を中退して上京。
秋山真之と共に東京大学予備門に合格するために英語を習った共立学校では高橋是清に教
えを受けるが、とつぜん秋山真之がひとり大学予備門を退学し、海軍の道へとすすんでゆく事に
なります。
子規は其の後、俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い、
日本の近代文学に多大な影響を及ぼすこととなりますが、日清戦争で従軍記者となり、その帰
りの船中で喀血し、肺結核で36歳の誕生日をむかえたばかりの翌々日〔明治35年9月19日〕に
力尽き…没してしまいます。
 子規の代表句
     ♪、柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
     ♪、をとゝひの へちまの水も 取らざりき
 子規の代表歌
     ♪、くれなゐの 二尺伸びたる薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる
     ♪、松の葉の 葉毎に結ぶ白露の 置きてはこぼれ こぼれては置く
     ♪、いちはつの 花咲きいでて我目には 今年ばかりの 春行かんとす











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