澤熊講師と行く歴史ハイク                                    2008年3月26日

四国・松山

「坂の上の雲」を歩く

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連合艦隊解散の辞



日露戦争 は日本にとっての総力戦であり、各所で苦戦しつつもロシア軍に勝利を収めることができました。

日本海軍は、ロシア海軍に対抗するために、開戦時に常備艦隊を再編成し、連合艦隊を編成し、連合艦隊

は旅順や日本海海戦でロシア艦隊を撃破し、日本の勝利に貢献しました。


終戦後、戦時編成の連合艦隊を解散し、平時編成に戻すこととなり、解散式が1905年12月21日に行われます。

その解散式において連合艦隊司令長官・東郷により聯合艦隊解散之辞が読まれることとなり、訓示は東郷

の筆であるが、文面の
起草は参謀秋山真之と言われています。


訓示の骨子は、日露戦争と歴史を紐解きつつ 国家における海軍の大事を説き、平時における海軍や海軍

軍人のあり方について指し示し、有事に備える心構えの重要さを示しています。



アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトはこの訓示に感銘を受け、
その英訳文を軍の将兵に配布しています。




解散の辞
二十閲月(えつげつ)の征戦已(すで)に往事と過ぎ、我が連合艦隊は今や其の隊を結了して茲(こゝ)に解散す

る事となれり。然れども我等海軍々人の責務は決して之が為(ため)に軽減せるものにあらず。


此の戦役の収果を永遠に全くし、尚(なほ)益々国運の隆昌(りゅうしょう)を扶持せんには、時の平戦を問はず

先ず外衛に立つべき海軍が常に其の武力を海洋に保全し、一朝緩急に応ずるの覚悟あるを要す。


而して武力なる物は艦船兵器等のみにあらずして、之を活用する無形の実力にあり、百発百中の一砲能く

百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、我等軍人は主として武力を形而上に求めるべからず。


近く我が海軍の勝利を得たる所以も、至尊の霊徳に頼る所多しと雖(いへど)も、抑(そもそも)亦(また)平素の

錬磨其の因を成し、果を戦役に結びたるものにして、若し既往を以つて将来を推(お)すときは、征戦息(や)む

と雖も安んじて休憩す可(べか)らざるものあるを覚ゆ。

惟(おも)ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦に由(よ)り其の責務に軽重あるの理なし。事有

れば武力を発揮し、事無ければ之を修養し、終始一貫其の本分を盡(つく)さんのみ。過去の一年有半彼(いう

はんか)の風濤(ふうたふ)と戦ひ、寒暑に抗し、屡々(しばしば)頑敵(ぐわんてき)と對(たい)して生死の間に出

入せしこと固より容易の業ならざりしも、観ずれば是れ亦長期の一大演習にして之に参加し幾多啓発するを

得たる武人の幸福比するに物無し。豈(あに)之を征戦の労苦とするに足らんや。


苟(いやしく)も武人にして治平に偸安(とうあん)せんか兵備の外観毅然たるも宛(あだか)も沙上(しやじやう)の

楼閣の如く、暴風一過忽ち崩倒するに至らん。洵(まこと)に戒むべきなり。


昔者、~功皇后三韓を征服し給ひし以来、韓国は四百余年間、我が統理の下にありしも、一たび海軍の廃

頻するや忽ち之を失い、叉近世に入り、徳川幕府治平に狃(な)れて、兵備を懈(おこた)れば、挙国米艦数隻

の應對に苦しみ、露艦亦千島樺太を覬覦(きゆ)するも、之と抗争すること能はざるに至れり。翻つて之を西史

に見るに、十九世紀の初めに當(あた)り、ナイル及びトラファルガー等に勝ちたる英国海軍は、祖国を泰山

の安きに置きたるのみならず爾来後進相襲て能く其の武力を保有し世運の進歩に後れざりしかは、今に至

る迄永く其の国利を擁護し国権を伸張するを得たり。


蓋(けだ)し此(かく)の如き古今東西の殷鑑(いんかん)は爲政(いせい)の然(しか)らしむるものありと雖(いへど)

も主として武人が治に居て亂(らん)を忘れざると否とに基ける自然の結果たらざるは無し。


我等戦後の軍人は、深く此等の實例(じつれい)に鑑(かんが)み、既有(きいう)の錬磨に加ふるに戦役の實験

を以つてし、更に将来の進歩を圖(はか)りて時勢の発展に後れざるを期せざる可(べか)らず。若(も)し夫(そ)れ

常に、聖諭を奉體(ほうたい)して、孜々(しゝ)奮勵(ふんれい)し實力(じつりょく)の満を持して放つべき時節を待

たば、庶幾(こいねがは)くば以て永遠に護国の大任を全うする事を得ん。~明は唯平素の鍛錬に力(つと)め

戦はずして既に勝てる者に勝利の榮冠を授くると同時に、一勝に満足し治平に安んずる者より直に之を褫ふ。

古人曰
(いは)勝って兜の緒を締めよと


明治三十八年十二月二十一日





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